社会人博士の研究メモ

働きながら博士課程で研究する者の備忘録

雇用のトリレンマ

「〜のトリレンマ」シリーズ?ということで、本書では、「雇用のトリレンマ」について書かれていたのでメモ。 

デジタルエコノミーはいかにして道を誤るか

デジタルエコノミーはいかにして道を誤るか

 

 将来の雇用の機会は、仕事を自動化するテクノロジーと労働力の余剰によって大きく制約されるだろう。この二つの要因が重なって、雇用のトリレンマの状況に追い込まれるだろう。新しい仕事の形は、(1)高い生産性と高い給料、(2)自動化に対する抵抗力、(3)大量の労働者を雇用する可能性、という三つの条件のうち、最大でも二つしか満たせない可能性が高い。(p.90) 

トリレンマが解消されるとすれば、それは超専門家社会が到来したときだ。ウェブの市場拡大力、売り手と書いてを結びつける力が、世界に数十億人いる労働者の大半が小さくとも食住をまかなえるだけは稼げるニッチを見つけるところまで行きついた世界だ。ただしこれは結局、ソフトウェアでは実現できない。この不思議な面白い世界に希望を持つことはできるが、おそらくあまり期待するべきではない。

もっと現実味のある未来のシナリオが次のようなものだろう。テクノロジーが産んだ新しい機会は、創出する仕事の数より破壊する仕事の数のほうが多い。ただし、大半の消費者にとって不可欠な商品とサービスのコストは下がるだろう。この未来の世界は今より良くなる可能性があり、労働者の賃金は伸び悩んでも、実質的な生活水準は上がるかもしれない。

だがこのような未来が実現するには、社会保障制度の大きな進化がほぼ必須だ。仕事を奪い合う労働者の数が増えれば、特別なスキルのない人々の賃金は頭打ちになるか下がらないだろう。(p.105)

 

未来に向かってバックせよ! 「サキ」と「アト」

前記事のソマリランド本に関連し、本日は以下の本を読んでました。 

世界の辺境とハードボイルド室町時代
 

ソマリランドに詳しい高野氏と室町時代に詳しい清水先生の著書ということで、双方の類似性が色々な事例をもとに書かれていて大変面白いです。

特に第二章の「未来に向かってバックせよ!」のタイトルの内容について触れられた以下の清水先生のコメントは面白かったので、その部分をメモとして引用しておきます。

日本語に「サキ」と「アト」という言葉があるでしょう。これらはもともと空間概念を説明する言葉で、「前」のことを「サキ」、「後ろ」のことを「アト」と言ったんですが、時間概念を説明する言葉として使う場合、「過去」のことを「サキ」、「未来」のことを「アト」と言ったりしますよね。「先日」とか「後回し」という言葉がそうです。でも、その逆に「未来」のことを「サキ」、「過去」のことを「アト」という場合もありますよね。「先々のことを考えて」とか「後をたどる」なんて、そうです。「サキ」と「アト」という言葉には、ともに未来と過去を指す正反対の意味があるんです。ところが、そもそも中世までの日本語は「アト」には「未来」の意味しかなくて、「サキ」には「過去」の意味しかなかったようなんです。

これは、勝俣鎮夫さんという日本中世史の先生が論文に書かれていることなんですが、戦国時代ぐらいまでの日本人にとっては、未来は「未だ来らず」ですから、見えないものだったんです。過去は過ぎ去った景色として、目の前に見えるんです。当然、「サキ=前」の過去は手にとって見ることができるけど、「アト=後ろ」の未来は予測できない。

(略)

ところが、日本では16世紀になると、「サキ」という言葉に「未来」、「アト」という言葉に「過去」の意味が加わるそうです。

それは、その時代に、人々が未来は制御可能なものだという自信を得て、「未来は目の前に広がっている」という、今の僕たちが持っているのと同じ認識を持つようになったからではないかと考えられるんです。神がすべてを支配していた社会から、人間が経験と技術によって未来を切り開ける社会に移行したことで、自分たちは時間の流れにそって前に進んでいくという認識に変わったのかなと思います。(p.74-76)  

コメントの中にもあるとおり、詳細は以下の勝俣先生の書籍の第1章「バック トゥ ザ フューチュアー」に書かれているようなので、こちらもまた是非時間を見つけて読んでみたいなと思いました。  

中世社会の基層をさぐる

中世社会の基層をさぐる

 

一章 バック トゥ ザ フューチュアー
   -過去と向き合うということ-
  はじめに
  一 「サキ」の語意の特徴
  二 新語意の出現とその意味
  三 バック トゥ ザ フューチュアー
  結びにかえて

補論 柳生の徳政碑文 -「以前」か「以後」か-

 なお、本書の一部内容が以下のウェブサイトでも紹介されているので、参考までリンクのせておきます。自分もこの記事を見て本書に興味を持ったことを改めて思い出しました。そのまま2年以上未読だったのですが、このタイミングで読めて良かったです。

honz.jp

ソマリランドからアメリカを超える

 この週末は以下の本読んでやる気エネルギー?貰ってます。

ソマリランドからアメリカを超える 辺境の学校で爆発する才能

ソマリランドからアメリカを超える 辺境の学校で爆発する才能

 

 私がソマリランドという国に興味を持つようになったのは、高野氏の以下の書籍を読んでから。

ソマリランドといえば高野氏というくらいの認識だったので、最初タイトルみたら高野氏の新書かなと思ったら違いましたが、やはり解説は高野氏が書かれてますね。

その高野氏の「解説」に書かれている以下の2点は、私も同じ感想持ちました。

私は本書を読んで二つのことにいたく感銘を受けた。

一つはソマリランドの若者の「飢え」。(略)もちろん、本物の飢餓もあるが、もっと圧倒的多数のアフリカの若者が飢えているのは食べ物ではなく、教育や仕事だ。とりわけ、未承認国家ソマリランドの若者は高等教育に飢えている。(略)

飢えている若者に適切な水や食事を与えると驚くほどの勢いで摂取し、爆発的に成長する。そうでなければ、日本とは比較にならないほど貧弱な教育しか受けていないアバルソ高校の新入生が数年後にはハーバード大学やイェール大学に合格してしまうことの説明がつかない。

もう一つ、感銘をうけたのはアメリカ人のパワーだ。クレイジーさといってもいい。著者はソマリランドのことをろくに知りもせず学校を作ってしまった。だから後で大揉めに揉めるわけだが、とにかく始めて、しかもやり通してしまう。学校の先生も、保険の効かない、病院もろくに無い未承認国家で、ほとんどボランティア並みの待遇で教えている。

著者の周囲のアメリカ人たちも、最初は冷笑していた人でも、成果が出始めると、積極的に支援を申し出る。そこには「どんなバカでもやった者がえらい」という単純明快なフロンティアスピリットが感じられる。(p.324-325)

排他的なソマリランドという国の中でアメリカ人が学校をつくり、最初は英語も話せなかった生徒をアメリカの大学に入れるまで育て上げるというのは並大抵の苦労ではないことは明らかで、このあたりのストーリは読んでいて引き込まれます。

 

ちなみに、本書を読んでいてふとどこかで似たようなことを感じた本を読んだなと思い思い出したのが、 マイクロソフトを辞めて途上国の教育機会を支援する組織を立ち上げたジョン・ウッド氏の以下の書籍。

マイクロソフトでは出会えなかった天職

マイクロソフトでは出会えなかった天職

 

この本は結構前の本ですが、個人的に結構想い出深い本であり、2007年の「今年の10冊」に選んでました。

d.hatena.ne.jp

 大企業を思い切ってやめてやりたいことをやるというのは多くの人が夢見ていることなのでしょうが、それを実行・実現できる人はほんの一握り。こういった人たちの活動を単に凄いな、という感想で終えるのではなく、自分の行動に反映させていくことが重要なのですが。。。

とはいえこういった本を通じてそのエネルギーを貰えるので、本書のようなジャンルにもアンテナ伸ばしておいて、定期的に手にとってみたいと思います。

J.S.ミル「ミル自伝」

J.S.ミルの自伝である本書は非常に読みやすい文体で訳されていることもあり、とても200年前近く前のものとは思えないです。 

ミル自伝

ミル自伝

 

内容としては、やはり第一章の「子供時代と早期教育」において、どのような教育を受けていたのか書かれている部分が衝撃です。今の時代では考えられないくらいの教育が父親から課されており、ただただ凄いなと。8歳からラテン語ギリシア後を勉強し、12歳までに 詩集や史書、演説、戯曲などを勉強として読まされている。また、数学は幾何と代数の基礎を徹底的に勉強し、さらにはアリストテレスの「修辞学」特に丁寧に読んだとあり、歴史に名を残す人というのは、幼少期から並外れているなと。

弁論術 (岩波文庫)

弁論術 (岩波文庫)

 

これ、小学生で読めるものなんですかね。。。

そしてこのまま学者の道へかと思ったら、ミルは17歳から35年間東インド会社でいわゆるサラリーマンとして働きながら様々な論文を書くという生活を続けており、個人的に社会人博士として働きながら学問を学ぶ身としては、非常に共感を覚えました。

この点について書かれた箇所について、少し長いですが、引用しておきます。

1823年5月。17歳のこのとき、その後35年におよぶことになる私の職業と身分が決められた。父の口添えで東インド会社に就職し、部下としてインド通信審査部に配属されることになったのである。慣例通り最下級の事務員として採用され、昇進も少なくとも始めのうちは年功順だが、事務員であっても最初から通達文書の起草を担当し、幹部候補として訓練を受けることになっていた。(略)

以後審査部に在籍し、1865年には部長になったが、そのわずか2年後にインドが女王直轄となり東インド会社は統治機関ではなくなったため、それを機に退職している。

自分の知的探求に毎日でも時間が取りたいが、自活できるほどの資産はないという人にとって、当座の生計を支えられる職業の中でこれほど適したものはあるまい。高尚な文学や思想で業績を上げられるだけの能力を持っている人には、いつまでも新聞や雑誌への寄稿に頼って生活することは奨められない。まず、生計を立てる手段として不安定である。信条に反することは書かないという良心的な書き手であれば、なおさらだ。

だがもっと重大な理由は、生きるために書く文は長くは生き残れず、全力を投じる対象にもならないことである。未来の思想家を育てるような著作を書き上げるのは膨大な時間を要するうえ、完成してもなかなか注目され評価されるには至らないから、これを生業とするわけにはいかない。(p.71-72)  

 東インド会社で働き政策運営に何が必要か実地に学ぶ機会に恵まれたことは、新しい思想や制度改革を論じる上で大いに役立ったに違いない、とよく言われた。たしかにそのとおりだと思う。(略)

だが、結局のところ一番役に立ったのは、あの仕事を通じて、ただの歯車として働く経験をしたことである。私は、全体が噛み合わなければ動かない機会の一つの歯車にすぎなかった。思索や執筆を仕事にしていたら、誰かの決裁を仰ぐ必要はなかっただろうし、実行に移す苦労を味わうこともなかっだだろう。だが政治文書の通信事務に携わる一介の事務員であれば、自分とは違う様々な人に納得してもらえない限り、命令一つ、判断一つ下すわけにはいかなかった。つまり私は、前例と違うことに慣れていない人にも抵抗なく受け入れてもらうにはどうしたらいいか、実地で学ぶまたとない地位にあったといえる。

こうして私は大勢の人を動かす難しさ、譲歩の必要性を身にしみて知り、名を捨てて実を取る駆け引きも体得した。ほかにも学んだことはすくなくない。全部は望めないときには、肝心要のものを確保すること。すべて自分の主張通りにならなくとも怒ったり落胆したりせず、ささやかな成果でよしとすること。それすら叶わず全面的に却下されたときは、平静に甘受すること、などである。

こうした知恵こそが個人の幸福をつくるのだと私は生涯をかけて学んだ。社会の幸福に全力を挙げて尽くそうと志す人も、理論実践のいずれを通じて行うにせよ、こうした知恵をぜひ身につけるべきだと思う。(p.73-74)

 この部分だけ読むととても様々な思想書を書いているとは思えないですが、個人的には非常に同意できる点が多く、改めて自分も頑張ろうという力を得ることができました。

また、自由論も再読してみたいと思います。 

自由論 (光文社古典新訳文庫)

自由論 (光文社古典新訳文庫)

 

 

メカニズムデザインとプライバシー

先日取り上げた「モラル・エコノミー」から追加でメモ。先日引用したリベラルトリレンマに関する説明に入る前のメカニズムデザインに関する部分。

モラル・エコノミー:インセンティブか善き市民か

モラル・エコノミー:インセンティブか善き市民か

 

見えざる手を助けるためには、経済において政府が役割を演じることを不可避的に必要とするが、メカニズム・デザインに関してはビッグ・ブラザーのようなものは存在しない。そして驚くべきことだが、まさにこれが問題となるのである。

その理論は、政策立案者の影響力の及ぶ範囲が必然的に制限されていることを認識することから始まっている。メカニズム設計者の仕事は、メカニズムと呼ばれる契約、所有権、その他の社会的ルールの集合を提出することであり、それは市場の失敗を軽減したり、排除したりするのである。しかし、現実主義と個人のプライバシーの尊重の両者は、たとえ諸個人に関する重要な情報が私的にのみ知られ、したがってメカニズム設計者によって、インセンティブ、制約、あるいは提案される政策の他の観点を実行するのに使用されることはできないことを要求する。

この情報のプライバシーという制約は、設計者が市場の失敗をもたらす理由を簡単に取り除くことができるというユートピア的解決を排除する。もし、提案されたメカニズムが、たとえば、人がどれだけ懸命に働くかということに関する情報や、あるいはある財やサービスに対する売り手と書いての真の評価に関する情報を使用することができるならば、まさにその同じ情報が、取引の当事者の間で完備された私的契約を記すのに使用されたことだろう。そして、その契約は、メカニズム設計者が呼び出され、対処することを必要とされて市場の失敗を除去しうるものであったはずである。 (p.151-152)

メカニズムデザインにおける情報のプライバシーという制約の部分がよく分からなかったので、もう少し理解を深めたいと思っています。

ネットで検索する限り、あまり日本語文献ではこの論点を検討している文献見つからなかったのですが、グローバルでは結構議論されているようですね。

 

モラルエコノミーとリベラル・トリレンマ

この連休はサミュエル・ボウルズ「モラルエコノミー」を読んでいたのですが、前記事でとりあげたサンスティーンの一連の公共政策に関する議論とも関連する書籍で、色々と考えさせられました。

モラル・エコノミー:インセンティブか善き市民か

モラル・エコノミー:インセンティブか善き市民か

 

というわけで、いくつか気になった部分をメモしておきます。

政策立案者や憲法起草者が直面する問題は、インセンティブと制約が統治のシステムにとって不可欠だということである。しかし、「あるがままの人間」があたかもホモ・エコノミクスのごとく設計される場合、インセンティブが公益の供給において抑制するように設計される利己心を促進するようになるならば、それらは裏目に出るだろう。

(中略)

政策立案者たちは、経済的インセンティブと倫理的・他社考慮的な動機の双方が効果的な政策のために必要だが、前者が後者を衰えさせるかもれないということに、どのように応えるべきだろうか。(p.3-5)

と問題提起した上で、以下の政策パラダイムの必要性を主張します。

わたしがここで提起したいのは、一方でのインセンティブと制約、他方での倫理的かつ他者考慮的な動機づけとの間の相乗作用という政策パラダイムである。(p.7)

著者は、アリストテレスの「立法者は、市民に習慣を教え込むことによって彼らを善良にする」「良い立法が悪い立法と違うのはこの点である」という「アリストテレスの立法者」の立場にたっており、本書中でもこの「アリストテレスの立法者」という用語が何度もでてきます(索引をみると合計15箇所)。 

ニコマコス倫理学(上) (光文社古典新訳文庫)

ニコマコス倫理学(上) (光文社古典新訳文庫)

 

この前提のもとで様々な事例をもとに従来の経済学モデルと最近の行動経済学や実験経済学の成果などが紹介されているのですが、個人的にはそれらを踏まえて論じられている第6章「立法者のジレンマ」は特に読み応えがありました。

アルバート・) ハーシュマンによれば、経済学者は「公的に主張されている法律や規制の主要な目的が反社会的な公道に烙印を押すことだ」という事実を軽視しているという。政治学者のマイケル・テイラーは、法的構造が選好と社会規範を形づくるというハーシュマンの考えを取り上げた。そして、彼はさらに先に進み、トマス・ホッブスによる国家の権威の正当化をひっくり返して、ホッブス的人間は、ホッブス的国家の存在理由となるのではなく、逆にその結果なのかもしれないと示唆した。1980年代においてハーシュマンを、そしてテイラーを読むことによって、わたしは本書に結果する研究プロジェクトの仕事を始めたのである。(p.148-149)

といった研究の動機の説明部分を始め、特にメカニズムデザイン理論によって明らかになった「リベラル・トリレンマ」について説明されている点は興味深く読みました。

第一に、結果としてもたらされる資源配分は、パレート効率的でなければならない。

第二に、政策は経済活動への諸個人の自発的な参加に基づかなければならない。生じる結果は、個人の「参加制約」を満たすものでなければならない。

第三に、人々がもっている選好の種類には、いかなる制約も存在し得ない。

これら3つの条件を、効率的、自発的参加、選好中立性と呼ぶことにしよう。 第一の条件は、集団全体に関する最低限の合理性の条件を課す。第二の条件は、財産の没収や交換への強制的な参加をあらかじめ排除する。第三の条件は、個人の自由と、善に対する個人の考えに関する事柄について国家が中立的だとことを表明している。(p.152-153)

として、メカニズム・デザイン研究によって、これら三条件を同時に満たすことはできないことが明らかになったと論じます。

この点について訳者解説では以下のように説明されています。

「リベラル・トリレンマ」は、立法者が、利己的個人と完備契約の仮定のみに基き、「選好の中立性」と「自発的参加」を追求するならば、それによってパレート効率的な状態を実現することはできないことを意味する。そのため、立法者は、「あるがままの人間」が持っている社会的選好を内生的に形成する可能性と市民の他者考慮的な社会的選好の積極的な役割を認識しつつ、「次善の世界」で立法を行わなければならないのである。このことが、まさに本書の副題である「優れたインセンティブが善き市民に代われない理由」である。(p.242)

まだ現時点では完全に理解しきれていないのですが、このあたりの論点についてはもう少し読み直して自分なりの理解を深めていきたいと思います。とりあえず現時点で目に止まった部分をメモしておきます。

最近様々なところで改めてその重要性が指摘されているアリストテレスもきちんと読み直さないとと思っているのですが、積読本が溜まっていく一方でいつになるのやら・・・。

公共政策における「設計」

昨日取り上げた以下の本の話の続き。

 昨日は本書第2章の「問題ーいかに発見され、定義されるのか」を素材に、フレーミング、イシューの重要性について書きましたが、続く第3章では「設計ー解決策を考える」として、問題設定後の解決案の設計のアプローチについての説明がなされています。本章では、中心市街地活性化政策をもとにどのように解決案を設計していくかが説明されており、それについては本書にて確認頂きたいのですが、個人的にやはり目につくのは一つの効果検討のアプローチとして紹介されている「費用便益分析」のところでしょうか。費用便益分析とは、いわゆるプロジェクトが社会に対してもたらす便益と、そのプロジェクトにかかる費用とが算出され、算出された費用と便益の値をもとに意思決定の判断を行うというものですが、このアプローチの本質やその難しさについては、やはりサンスティーンの以下の書籍も読むとその難しさをより深く理解することができます。

シンプルな政府:“規制

シンプルな政府:“規制"をいかにデザインするか

 
命の価値: 規制国家に人間味を

命の価値: 規制国家に人間味を

 

 上記書籍の出版を始め、昨年はまた一段とサンスティーンの議論が注目を集めたような気がするので、今後益々公共政策の分野においても「ナッジ(nudge)」や費用便益分析についての議論が深まりそうです。個人的な感覚としては、日本では法哲学や学際系の分野ではサンスティーンを取り上げた論文を良く読むのですが、公共政策、特に政治・行政学の分野においてもサンスティーンの一連の研究についての研究が増えると良いなと思っているのですが。おそらくこれから増えてくるものと思いますが。

上記のサンスティーンの書籍についてはまた別に取り上げるとして、今日の環境政策やエネルギー政策、少子高齢化政策、プライバシー保護等の多数のアクターが関与する問題を解決するための政策を考えるにあたっては、問題設定の重要性とともに、どのようにその問題のリスクを可視化していくのかということが問われ、そこに費用便益分析をどう活用していけばよいのかという点が一つの論点になっているといえます。

個人的な学問的な関心の一つがその領域でもあるため、この点についてはまたこれから少しずつ本ブログにおいても書いていきたいと思います。

 

ちなみに、上記とはまったく関係ない文脈でしたが、たまたま読んだ以下のネット掲載記事「宮台真司苅部直渡辺靖鼎談 民主主義は不可能な理想か」にも、「シンプルな政府」が取り上げられていたので、合わせてメモしておきます。内容としては費用便益分析のほうではなく「ナッジ」についてですが。

dokushojin.com

渡辺 

 つい最近、キャス・サンスティーンの『シンプルな政府』(NTT出版)という本が出ましたよね。ノーベル経済学賞を獲った、行動経済学で知られるリチャード・セイラーでもそうですが、押しつけではなく、あくまで自発的と思わせながら、人びとを一定の方向に導いていく。そうしたナッジ式のプログラムが、今後様々なところで開発されていくと思います。ただ、ナッジにしても、その根底には設計者の何かしらの意図があるわけですから、既にパターナリズムに陥っていて、純粋な自由選択とは言えない面もありますよね。もちろん、純粋な自由選択などというのは理論的には虚構だとは思いますが。

宮台 

 (中略)
ナッジについてですが、サンスティーンは「二階の卓越主義」と言います。二階の卓越者は従来のエリートと違って答えを示さない。人々が自分たちで解決策を見いだしたという感覚を手放さない範囲で熟議でナッジを発揮するファシリテーター(座回し役)です。大切なのは元々マクロな処方箋とはなり得ないこと。ファシリテーターが機能する熟議は、ジャン・ジャック・ルソーの言う民主政の条件、即ち「政治的決定によって各々の成員が被る帰結が想像できて気に掛かる=ピティエ(憐れみ)が生じる」ような小ユニット内でのみ可能です。つまり「仲間」であり得る範囲です。ルソーが育った当時のジュネーブ規模の二万人が上限か否かは不明ですが、何千万人や何億人の規模は到底「仲間」じゃあり得ません。